労苦の終わり

「労苦の終わり」チェルフィッチュ@横浜STスポット with 上本他
http://homepage2.nifty.com/chelfitsch/nextstage.htm

延々と独白や語りを繰返す変わった作品。配役が劇中で入れ替わり、流れがリフレインされ、感情移入やストーリー性というものを拒絶する。じゃないですか、えーでも、○○しなきゃていう感じ、みたいな等の文章を曖昧にする婉曲表現、それに伴う指先や腕や足の先の微妙な動きが執拗に強調される。

見ていて途中から、あ、これはマイクロスリップだ、と気が付く。身の回りのマイクロスリップをスクラップブックに貼り付けるように丹念に収集し、再構成させた、「間取りの手帖」に通じるマニアックな作品。

http://www.let.kumamoto-u.ac.jp/cs/cu/000602CP06.html

我々のルーティンの身体の所作には、一度動き出すと、その動作のプログラムを遂行させるようなかたちで、身体所作が連続性をもってある点まで自動的に進んでしまう。マイクロスリップは、身体所作をある目的をもっておこなったにもかかわらず、他の身体所作にスリップしてしまう誤操作のことである。

マイクロスリップについては、「オートポイエーシスプラス」の佐々木正人河本英夫の対談では頚髄損傷者が靴下履きを再学習している例等で紹介される。知覚と行為のずれがマイクロスリップという形で表出し、時間を経て知覚-行為循環が学習され行為対象との関係が生成される。

この演劇では、他者との対話(他者に対しての発話)という行為における知覚と行為のずれが表現される。コップのつかみ方がわからずもてあそぶ(もてあます)サルのように、言葉をもてあそぶ(もてあます)。サルはやがて取手というメディアの使い方を覚え、コップとの関係性を確立する。人間はやがて言葉というメディアの使い方を覚え他者との関係性を確立する。他者との関係性の確立というものの象徴として「結婚」というテーマが劇中で取り上げられる。

しかし他者との関係性の確立は、安定するものとして存在する事はない。それは最後に登場した、妻と長い間別居中の男性というキャラクターで象徴される。発話という行為の成功の瞬間のみその関係性が知覚され、行為の連続でしかその関係性が維持されない、ということを表すかのように、登場人物は延々としゃべり続ける。

結婚の始まりと、結婚の破綻という題材をそこに織り込む事で、行為と知覚のずれ+時間⇒関係性の創出=オートポイエーシスというべき瞬間を覗かせる。historyが無いのではなく、historyを生成の連続と捉えその生成を問題としているんじゃないだろうか?

という事で、生成の問題好きの自分としては非常に楽しめました。ありがとうございました。
他の人の感想)http://inzou.seesaa.net/article/973190.html(indian elephant)